第1テーマ「北海道120万年物語」~第2テーマ「アイヌ文化の世界)
1、人類が日本列島に生活したのは4万年前、日本人がDNAを受継いでいる縄文人は1万3千年前からとされている(国立東京博物館)。このような中で「日本の先住民族」とはどのような人達を指すのか。「先住民族」の定義と共にアイヌがそれに相当する理由を、<自然・歴史・文化に関する総合的研究機関>を謳う同館の使命という観点から回答されたい。
謹啓 処暑の候、時下ますますご清祥のことと、お慶び申し上げます。
日ごろから、北海道の文化行政の推進にご協力いただき、厚くお礼申し上げます。
さて、この度は、北海道博物館の総合展示につきまして、なご意見・ご指摘を賜り、誠にありがとうございます。
当館は、平成27年に北海道の総合博物舘としてリニューアルオープンしたところであり、北海道立総合博物館として、多くの皆様からの様々なご意見を伺いながら、条例をはじめとする関係法令や、設立に当たって定めた使命、基本的運営方針等を踏まえ、展示のあり方等のさらなる工夫、充実に努めてしいかなければならないものと考えております。
つきましては、この度のご意見・ご指摘を踏まえ、次のとおり、現在の展示の考え方等を説明させていただきますとともに、今後の展示の充実に向けて検討を進めていくべきと考える点などについて、お伝えします。
先ず、アイヌ民族と北海道の歴史に関するご質問・ご意見(第1・2テーマに関する質問1~質問5)についてご説明します。
第1・2テーマに関するご質問のうち、質問1と3につきましては、当館の総合展示においてアイヌ民族と北海道の歴史の展示に関する重要な事項についての捉え方や表現のあり方に関するご質問と受け止めております。
先ず、アイヌ民族が日本の先住民族であることにつきましては、平成20年6月6日の国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、これを踏まえた内閣官房長官談話において「政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識」が示されています。当館の展示では、基本的にはこれらの決議等を踏まえ、アイヌ民族を日本の先住民族と説明したものです。
この官房長官談話では、「アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代へ継承していくことは、多様な価値観が共生し活力ある社会を形成する「共生社会」を実現することに資するとの確信」が述べられており、このことは当館の使命とする「北海道のすべての人…が生み出し、残し託してくれた北海道ならではの自然・歴史・文化に関わる遺産を大切な宝ものとして未来へとつなぐ」「北海道の国際化・文化力の向上…をめざす」等にも沿ったものであると考えております。
このような決議や談話に至る背景には、政府の有識者懇談会における学識者の審議をはじめ、民族学等の学会においても、アイヌ民族を先住民族と位置付けることを求めた意見・要望等があったと認識しております。
3、「明治政府が北海道を日本の領土に入れ」とあるが貴職の考える領土とは何か。
また、これ以前、北海道は何処に属していたのか。豊臣秀吉や徳川家康が蠣崎氏に蝦夷地統治を許容し、江戸幕府による北方警備や直轄統治、松前藩の蝦夷地における権限拡充という歴史的事実に照らして回答されたい。
さらに、安政元年(1854年)、「日露和親条約」締結により日露国境は千島列島の得撫島と択捉島の間とされ、一方樺太については「界を分たず、是迄仕来の通り」として問題解決が留保された。これらは、ロシアが同年以前より「北海道は日本の領土である」と認めていたことを物語るものだが、この日露間の国際関係をも併せて回答されたい。
北海道の国際法上の位置付けについてですが、平成3年第122回臨時国会における政府の答弁書において、「我が国の回有の領土であって、江戸時代末から明治時代初めにかけ我が国とロシアとの間で国境の確定が行われた際、北海道本島については全く問題とならず我が国の領土であることは当然の前提であった」とされているところであり、現在もこの見解が踏襲されているものと理解しております。
一方で、江戸時代までの北海道につきましては、幕府はこの地を「蝦夷地」と呼び、本州以南の諸藩におけるような現代の戸籍に相当する人別帳の編成を行わず、藩政の基盤となる石高制を施行しない等、明らかに異なる位置付けをとっていました。このことは、18世紀頃までの日本地図の多くが蝦夷地を描かないか、または異なる色で塗られていること等にも反映されています。また、江戸時代には蝦夷地のアイヌ民族の社会が一定の自律性を有していたことが、当時の記録からうかがえることが広く指摘されています。当館の展示では、江戸時代までの蝦夷地が本州以南とは異なる位置付けであったことと、明治維新以後において「蝦夷地」を「北海道」と名付け、はじめて全道を直接に管轄する行政庁である開拓使を設置する等の施策が進められた経緯とを踏まえ、明治以降にあらためて近代国家に組み込まれた地域という意味で表記したものです。
展示における考え方は以上のようなことですが、このような重要な事項につきましては、それぞれの用語や考え方について、よりわかりやすくなるよう、引き続き検討と工夫を重ねてまいりたいと考えております。
2、和人との混住は、アイヌにとって"打撃"であり"苦しみ"であったことが強調された展示になっている。和人がもたらした文明の恩恵は、アイヌも同じ日本人として等しく享受してきたはずであるが、負の側面のみを強調する意図は何か。
また、アイヌ文化の一例であるイオマンテ(熊の生贄)、ワナによる動物捕獲等の禁止については自然保護や動物との共生、また幼女(女性)に対する入墨禁止については女性の人権、健康という各観点を踏まえて回答されたい。
4の、和人の人口増加と以後の文明は、資源保護、産業発展の観点から、資源再生産(鮭ふ化増殖事業や海産物の養殖等)と秩序(漁業権等)を制度化すると共に農業振興策を推進し、現在、それらは北海道産業の中核を担うまでになっている。この発展史とアイヌの狩猟等を一定程度制限したことの評価について回答されたい。
5、北海道は、他の地域と相違する歴史・文化を有するが、いわゆるアイヌ文化とて先行文化と時に衝突し、吸収、同化したものである。アイヌと和人の関係も同様で、そもそも文明史とはそういうものと考える。
しかるに、上記展示は、アイヌ居住地の一つである北海道を和人が侵略し、搾取を繰り返したという史観を色濃く反映している。「和人=加害者、アイヌ=被害者」という短絡な構図は、道民に贖罪意識を想起させるばかりか、過酷な環境のもと郷土開拓に汗を投じた先人たちを貶め、反アイヌ感情や差別意識を助長させることさえ危惧される。かかる展示は道民のアイデンティティー確立に無益であり、<道民の知的活動しての拠点>という目的、あるいは<開拓に携わった先人の努力に敬意と感謝を表す>という基本計画、設置条例にも反すると考えるが如何か。
ご質問の2、4、5につきましては、いずれも、いわゆる北海道の開拓や近代化がアイヌ民族の生活や文化に与えた影響などの捉え方に関するものと受け止めております。
北海道の開拓政策が進められる中で、アイヌ民族のそれまでの生活基盤が大きな影響を受け、また伝統文化の様々な要素が否定され、アイヌ語等はその継承が危機的な状況に至ったこと等は、広く知られていることと認識しており、当館の展示におきましでも、このような面を伝えるようにしているところです。
それとともに、今日までの北海道の歴史の歩みの中で、アイヌの人々が自らの生き方を広げ、農業を始めとする様々な職業に就き、地域社会の担い手となっていたことを紹介し、アイヌ民族と和人とは、共に北海道を築いてきたのであり、これからの北海道を担っていくとの認識を示しているところです。このようにアイヌ民族と北海道の歴史の様々な側面を示すことで、「多文化共生」「異文化理解」「国際化」が重視される国際社会に向けて、北の大地の豊かさを伝えていきたいと考えています。
今後とも、歴史の様々な面をよりわかりやすく、的確に伝えることができますよう、展示で取り上げるテーマや視点、表現等の見直し、充実に努めてまいりたいと考えております。
第4テーマ 「わたしたちの時代へ」
第一次世界大戦における被害の大きさから、軍縮や民主主義、共産主義の思想が世界にひろがりました。日本でも労働運動や軍縮世論がさかんになり、普通選挙も実施されますが、治安維持法と特別高等警察が共産主義だけでなく、学生や労働者の運動を激しく弾圧していきます。
1945~52(昭和20~27)年、日本はアメリカを中心とする連合国に占領されます。占領政策は、国家神道の禁止と政教分離、軍国主義者の公職追放をおこない、労働組合を奨励して、労働運動がさかんになりました。また女性にも選挙権があたえられ、戦後初の総選挙では多くの女性議員が誕生するなど、民主化がすすみました。しかし、1950年にはじまった朝鮮戦争は、日本の経済復興をうながした半面、追放が解除されて旧支配層が復活し、共産主義者は再び弾圧されました。
20世紀はじめの日露戦争で、日本はロシアに勝利し、南満州に特権をえて、南樺太、朝鮮にも領土を拡大しました。「満州事変」につづく日中戦争のころには、北海道からも多くの人が「満州開拓」のために中国東北の農村にわたりました。
また、北海道にも炭坑や土木工事のために朝鮮人が連れてこられました。戦争が長引きアジア太平洋に拡大したことが、アメリカによる原子爆弾の投下と日本の敗戦、連合国による占領につながりました。
1945(昭和20)年の敗戦により、戦地や占領地から多くの軍人や民間人が日本に引きあげてきて、食料が不足し、政府はふたたび北海道の開拓をすすめました。戦争をせず戦力を持たないことを定めた新しい憲法ができ、多くの国民が歓迎しました。
しかし、朝鮮戦争がおきると、日本に警察予備隊(のちの自衛隊)がつくられます。翌年、講和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ軍が日本にとどまりました。アメリカとソ連が対立する東西冷戦のかげが日本をおおったのです。
1、歴史事象として、先人たちが当時の価値観と治安維持等の目的から特定の運動を取り締まった事実を否定しないが、"激しく弾圧"との断定は、現在の価値観における一方的主張であり、同館が掲げる使命に妥当しないと考えるが如何か。
2、「旧支配層が復活」とは何か。「共産主義者は再び弾圧されました」とする事実関係と共に回答されたい。
また、一般市民を巻き込む原爆投下は当時の国際法においてさえ戦争犯罪であるところ、展示解説は、原爆が日本に対する"懲罰"かの如き表現をし、占領政策を歓迎するが如き文意となっている。かかる一面的な展示は、今次大戦の負の側面を伝えきれず、被爆者をも侮辱するものと考えるが如何か。
3、現憲法は、GHQが作成し、我が国の主権喪失時に公布された。その経緯に照らし、「多くの国民が歓迎した」とするのは、表層的平和主義者または護憲論者の願望であって、歴史事実とも乖離した一方的な政治的主張であり、同館の使命にも齟齬すると考えるが如何か。
4、同館が公立である以上、特定の思想・政治信条、歴史観への偏向が許されないことは当然である。しかし、本コーナー展示は、政治的側面を強調するあまり郷土史としてのバランスを欠き、<知のネットワークの拠点>や総合的<研究機関>にもなりえていない。<道民が北海道を知り、誇りを確認する場>を標榜するなら、次のようなテーマをこそ手厚く紹介すべきところ取り上げられていないのは何故か。
○札幌オリンピック(昭和47年2月開催)
全ての道民が歓迎し、何らかの形で関与し感動を共にした。札幌オリンピックは、世界的にも稀な豪雪都市札幌の交通環境を向上させ(地下鉄、地下街)、インフラ整備に多大な貢献をし、更に北海道・札幌の知名度を世界的に向上させた。
○本州を凌ぐほどに成長した本道稲作産業の努力
○「晩成社」を率いて、今日の農業十勝の基礎を築いた依田勉三の偉業
5、「北方領土は、北海道の行政区域の一部であり、領土問題の解決が本道の発展と道民生活に密接に関係することから、北方領土復帰対策を道政上の重要施策として位置付け、必要な諸対策を積極的に推進します(道庁HP)。」として、貴職は大きな努力を積み重ねておられるが、「社会的使命」を謳う「道立」「総合」博物館である同館が、上記展示例の各テーマに比して、北方領土問題に関してふさわしい展示を行っていると評価しているのか。
なお、以上の質問に対しては、本文に示した他、特に下記観点に照らし又は言及しながら、本書受領から30日を目途に文書またはFAXにて回答されたくお願い申し上げます。
①関連諸法、条例および博物館使命と展示内容の整合性について
②展示内容の審査と検証作業の仕組みについて
③展示物・解説文の訂正または異説(両論)併記をすることの可否について
④不適当展示に対する展示責任と当該担当者の処分について
ご質問の1~3につきましては、治安維持法、戦後のいわゆる公職追放とレッドパージ、また新憲法制定をめぐる当時の人々の意識等、戦時下から戦後にかけての北海道の歴史に関する事実認識や表現・用語のあり方に関するものと受け止めております。
治安維持法につきましては、その施行下では特別高等警察等により、いわゆる共産主義、社会主義等のほか、学生、労働者による活動が広く取締の対象となったことが知られており、厳しい取締も行なわれたことが様々な記録に残されていると認識しております。当館の展示では、このような認識を踏まえ、戦時下の道民の生活を紹介するにあたり、治安維持法のこうした面にも注意を払ったものです。
「旧支配者層が復活」との表現は、いわゆる公職追放によって、それまでの社会の指導的立場にあった人々が公職に就くことを禁止されましたが、昭和22年以降順次処分の取消や解除が行なわれ、これらの人々が指導的立場に復帰したとの認識に基づくものです。また、「共産主義者は再び弾圧されました」との表現は、いわゆるレッドパージと呼ばれる共産主義者の取締によって、多くの人々が解雇されたとの認識に基づくものです。
なお、原子爆弾の使用につきましては、当館におきましでも、現在のみならず当時においても厳しく批判されるべきことであると認識しております。
憲法について、「多くの国民が歓迎した」との表現は、現憲法の制定、施行当時の世論調査などの各種の記録において、現憲法を肯定的にとらえる回答が多数を占めているものが多くみられるとの認識に基づくものです。あくまで当時の社会情勢を説明したものであり、今日の憲法論議を巡る政治的主張を踏まえたものではございません。
以上のように、展示の考え方についてご説明いたしましたが、現代史については評価も様々に分かれている面もありますことから、それぞれの表現や用語につきましては、当時の北海道と道民の生活に即して、歴史の様々な出来事や側面をよりわかりやすく伝えていけるよう、今後とも引き続き、展示や表現の工夫を検討してまいりたいと考えております。
ご質問の4につきましては、第4テーマに即していただいたものですが、展示の中で「札幌オリンピック」「農業発展の歴史」「北海道の歴史の中で特に注目しとりあげるべき人物」等についてより積極的に位置付けていくべきとのご提言をいただいたものと受け止めております。
先ず北海道における稲作産業の努力につきましては、総合展示の第3テーマにおいて「北海道の米づくり」や「農業の王国へ」のコーナーを設け、その努力の歴史を、使用されてきた様々な農具なども交えて紹介していますが、なお一層の充実に努めてまいります。
札幌オリンピックにつきましては、道民に勇気と感動を与え、都市基盤整備にも大きく貢献するなど、北海道・札幌を世界に広く発信する機会にもなったと認識しており、既に昨年度、テーマと期間を決めて展示を行う「クローズアップ展示」コーナーにおいて、札幌オリンピックをテーマに関連する資料を紹介したところですが、来年度に向けて、常設展示化につきましでも検討してまいりたいと考えております。
また、ご提言にありました、今日の北海道の礎を築いた人々につきましては、今後様々な形で焦点をあてて幅広く紹介していきたいと考えております。
質問5につきましでも、上記と同様、第4テーマに即していただいたものではありますが、ご提言の趣旨は、道政上の重要課題でもある北方領土問題について、当館においてどのように取り組んでいくのか、ということにあると受け止めております。
当館といたしましては、北方領土が北海道本島と歴史的、地理的、文化的に密接な関わりを持ち続けてきた事実について、来館者の皆様により深く知っていただくことが大切であると考え、総合展示の各所に、それらに関する資料や解説を配置しているところです。
北方領土をはじめ千島、樺太に関する展示の充実については、これまでも様々な方々からご意見をいただいているところでもあり、戦後70年を過ぎ、元島民の方々も多くの方が他界され、残った方々も平均81歳を超えている今日、北方領土を行政区域とする北海道として、一日も早い領土復帰を願い、戦後の千島、樺太からの引き揚げと戦後開拓などの生活体験にも重点を置きながら、領土問題を含む北方四島に関する展示の充実と常設化の検討を速やかに進めてまいりたいと考えております。